【芸能】西城秀樹さん死去 “新御三家”郷ひろみが追悼 「長男は五郎、次男は秀樹、末っ子がボク。とても悲しい気持ちでいっぱい」
「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」等のヒット曲で知られる歌手の西城秀樹(本名:木本龍雄、きもと・たつお)さんが16日に死去した。
63歳だった。
西城さんの訃報を受け、郷ひろみ(62)が17日、所属事務所を通じてコメントを発表した。
西城さんは、広島県出身。1972年に「恋する季節」で歌手デビュー。
翌年には「ちぎれた愛」、その後も「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」「薔薇の鎖」「ギャランドゥ」等の人気曲を歌った。
又、トップアイドルの仲間入りを果たし、郷と野口五郎(62)と共に「新御三家」と呼ばれた。
郷は「同世代として、とても残念です。ボクの中で長男は五郎、次男は秀樹 末っ子がボクでした。秀樹が先に逝ってしまった事、とても悲しい気持ちで一杯です」と辛い胸中吐露。
「デビュー当時、右も左も分からなかったボクに、『ひろみ、何か分からない事があったらオレに聞いてくれ』と親身になってくれた事、一生忘れません。心からお悔やみ申し上げます」と偲んだ。
5/17(木) 14:39
西城 秀樹は、日本の歌手、俳優。
広島県広島市出身。
アースコーポレーション所属。
身長181cm。
上沼恵美子、江川卓、村上ショージ、鳥山明、掛布雅之、具志堅用高、明石家さんま、アグネス・チャン(陳美齡「チャン・メイリン」)と同じ歳である。
広島県広島市、広島駅近郊の東蟹屋町(現:東区 東蟹屋町)に誕生する。
小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベック
で、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄達とした。
シカゴ 長い夜 Chicago 25 Or 6 To 4
ジャニス・ジョプリン等の洋楽に影響を受け、1971年のレッド・ツェッペリン広島公演もバンド仲間と観戦。
歌謡曲は聴いてなかった。
強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴに繋がったと話している。
岩国基地が近辺にあった為、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている。
父親が頑固で厳格な人であった為芸能界入りを猛反対。
その反対を押し切り、家出同然で広島から上京。
1957年、「伴淳三郎東京事務所」と兼ねる形で設立した「東京芸映プロダクション」を前身とする。
発足当時は外国テレビ映画『アラゴンの城塞』『遥かなる戦線』『忘れられた人々』『独逸かく戦えり』『命ある限り』等を輸入したり、角丸証券、東洋レーヨン等のCF(commercial film:動画広告)制作が中心の企業であった。
※東レ株式会社(とうレ)は、合成繊維・合成樹脂を始めとする化学製品や情報関連素材を取り扱う大手化学企業。 1962年、タレントのマネジメント業に進出。
1972年3月25日、ビクター音楽産業 (RCA) よりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。
三井グループの中核企業の一つとしてその名を知られており、コーポレート・スローガンは、「Innovation by Chemistry」(化学による革新と創造)。
社名にあるレは化学繊維のレーヨンを意味する(旧社名:東洋レーヨン)が、同社は現在、レーヨンの生産は行っていない。
レーヨンは光線(英:ray)と綿 (cotton) を組み合わせた言葉である。※
以降、エミー・ジャクソン<本名エミー・イートン。日本名・深津エミ。イギリスエセックス州ランスフォード生まれ。父方の祖父がイギリス人と言う。1964年に当時はラジオ関東のDJ番組のアシスタントを勤めていた時に、湯川れい子に見いだされ、翌65年に日本コロムビア (CBSレーベル)より「涙の太陽」でデビュー。主に海外のポップスのカヴァーを中心に出していた>の「涙の太陽」(1965年)
涙の太陽/エミー・ジャクソン
いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)のヒット等で礎を築く。
角川博、河合奈保子、石川秀美、神野美伽、芳本美代子、今井美樹、中村あずさ等が所属していた。1972年3月25日、ビクター音楽産業 (RCA) よりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。
キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。
片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。
絶唱型と言われる歌唱法を披露。
『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。
1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露。
「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。
「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。
これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。
『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。
1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。
西城秀樹 YOUNG MAN (Y.M.C.A.)
Young man, there's no need to feel down...
ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年迄10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。
1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し、その後11年連続で開催する。
「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。
1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)。
続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する。
同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う。
第1弾シングルは「ギャランドゥ」。
Wham! - Careless Whisper (Foreign Skies, Live in China, 1985)
西城秀樹 抱きしめてジルバ 1984
バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それ迄の歌謡曲の枠に囚われる事無くロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組む様になる。
『NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」迄11年連続出場。
金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」迄6年連続受賞する。
ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」迄22曲(154週)ランクインした。
以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。
2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。
2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。
軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。
2011年12月20日、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。
右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態等が改善していた。
西城の訃報を受け、新御三家としてライバルでもあり友でもあった郷ひろみ(原武 裕美)と野口五郎(佐藤 靖)を始め、数多くの著名人が追悼コメントを発した。
因みに西城秀樹の歌で一番有名な「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(ヤングマン ワイ・エム・シー・エー)は、西城秀樹の楽曲で、28枚目のシングルである。
オリコンチャートでは、リリースされて2週間で3位に初登場し、翌週より5週連続で1位を獲得。
累計売上80.8万枚を記録した自身最大のヒット曲で、「新御三家」の全てのシングル曲の中でも最大のセールスを誇る。
ディスコ音楽として、当時アメリカでヒット中のヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」を、当時の西城秀樹のマネージャーであったあまがいりゅうじ(天下井隆二)が青春讃歌/応援歌として訳詞し、大谷和夫が青春歌謡ポップス風にアレンジした作品である。
ポップス史上、ゲイ・イメージを表面に出して音楽活動を行った最初のグループと言われ、アメリカにおけるゲイの理解向上に貢献したとの評価もある。
又、実際にリードボーカルのヴィクター・ウィリス以外は全員ゲイであったと言われているが、真偽は定かでは無い。
1978年に発表されたグループ最大のヒット曲「Y.M.C.A.」は、西城秀樹が1979年に青春歌謡ポップス曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーし大ヒットした事に寄り、日本でも楽曲と共にグループ名も一躍有名になった。
又、ペット・ショップ・ボーイズがカバーした「Go West」
Village People Go West OFFICIAL Music Video 1979
これ等の世界的ヒット曲は現在においても様々な場所で流され、全世界での総売上は5000万枚に達する。
モラリが、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ(ニューヨーク市マンハッタン区ダウンタウンにあるアメリカの同性愛者運動発祥の地)にあるゲイ・ディスコを訪れた際に、インディアンの衣装を身に着けたダンサー、フェリペ・ローズを発見。
初期のヴィレッジ・ピープルは、ゲイ・ディスコでの営業等を中心にアンダーグラウンド的な活動を行っていたが、ゲイ受けを狙い過ぎたヴィジュアルや音楽性が裏目に出てしまい、ターゲットとしていた肝心のゲイ達からは「ゲイをパロディ化している」と受け止められ、余り良い反応は得られなかったと言う。
そこで、ゲイに限らず一般の人々にも受け入れられる様に、ポップ路線へと変更した所、それが功を奏し世界的スターとして大成功を収める結果となった。
それと「Y.M.C.A.」って何の意味って話だが、これは「Young Men's Christian Association」の略で、キリスト教青年会による若者(主に男性)の為の宿泊施設の事を指す。
が!
それと有名なYMCAの振り付けなんだが、元々発売時には核となる振り付けは存在せず、ヴィレッジ・ピープルは来日時に『夜のヒットスタジオ』等に出演した際には、一般的なディスコ・ダンス風の振り付けで唄っていた。
現在に至る迄様々な場所で使用されている、両手で「Y」、「M」、「C」、「A」の4文字を表現する振付は、西城秀樹が1979年1月4日~6日開催の新春コンサートで初披露したもので、その後ヴィレッジ・ピープルが来日した際には対談でヴィレッジ・ピープルに伝授している(当時の『夜のヒットスタジオ』で紹介)。
哀悼の意を表明します。
個人的には66枚目のシングル・ちびまる子ちゃんエンディングテーマの「走れ正直者」(1991年)とかも好きでした。
やはり格好いいアニキってイメージが強いですね。